いのち

5年前の春、含蓄深い言葉に出会った。今も、何かの折につけ思い出される大切な言葉となっている。

「今、いのちがあなたを生きている。」

浄土真宗だからこそ出た、この言葉なのだという気がしている。仏教を語れるほどの知識は持たないが、宗祖の親鸞(しんらん)が修行した天台宗や、親鸞の師匠と言っていい法然(ほうねん)を宗祖とする浄土宗ならまだしも、それ以外の宗派からは出てきづらいものではないか。そう、感じるのである。

昨日、今日の雨で、金木犀の花が水たまりを黄色く縁取っている光景を見ながら出社した。「いのち」を思うこの数日であった。

いのち。命。

広大無辺な宇宙空間に偏在する「いのち」が、私を生きているのだろうか。彼を、彼女を生きているのだろうか。そして、金木犀を生きているのだろうか。「いのち」の全体性の一部として私が生き、生かされているのであろうか。

問いを立てることはたやすいが、その問いに対して、論理を持つ答えを見出すことは容易ではない。唯一の答えは、果たして存在するのか。各個人の人生観や宗教観、科学観によってしか、答えることは不可能なのではないか。

ただ、この言葉の持つ深みに思いを至らすことで、人生は彩を増すように思う。人と人のつながりの中、連環の中、いのちを精一杯生きていかねばと思い新たにするのである。

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